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モノづくりDNA 第1回大島高任



 
昭和30年代の小学生の頃には、夏休みになると「ラジオ体操」もあったが、学校では「トラコーマ」の治療が行われた。今の時代で「トラコーマ」は死語になった感がある。知らない人も多いだろう。結膜炎の一種で感染症らしい。衛生状態とか栄養状態が悪いと発症したらしい。
 指名された生徒は学校に行って、「トラコーマ」の治療を受けなければならないのである。学校にお医者さんが来て、治療するのである。治療は目に薬をつけるだけであるが、治療を受けた子どもはすぐわかった。目の周りにぬらぬらしたのが、付いているのである。
 また、頭のしらみを駆除するために、「DDT」をかけられた時代でもあり、回虫や尭虫駆除のために「サントニン」を飲まなければならなかった。
 「がんべ(方言・皮膚病)」「しらくも」「たむし」も結構あった。「しらくも」にはイチジクがいいというのでその実から出る汁を付けた。
子どもたちが鼻の両穴から、青い汁を垂らしていた。「青っ鼻」である。紙が無いので、服の腕の部分で、「青っ鼻」を拭いていた。服の腕の部分が光っていたりする。あれももしかしたら病気の1種だったのかも知れない。
 現代は、道でテイッシュを無料で配る時代である。
 あの「青っ鼻」も、テイッシュを貰っていれば、すぐ拭けたものを。
 現代の子ども達は、衛生状態及び栄養状態に恵まれ過ぎている。



 寒い冬の季節を迎える前に、校庭の隅から「キーン」という金属音が鳴り響く。教室のストーブ用の薪を切る音である。校庭の片隅でやっても狭い校庭である。金属音は、授業中の教室に、遠慮なく飛び込んでくるのである。休み時間に見に行くと、おじさんが前掛けをして二人くらいいる。焼き玉エンジンの製材機で、手際よく木を切っている。一本の木を、最終的には、ストーブに入る30センチくらいに切らなければならないのである。エンジンから水蒸気が上がっている。薪は次々と山積になっていく。
切り終わると、次は上級生と先生達が手渡しで、薪を校舎の軒下に、積み上げなければならないのである。それは薪の切り終わり次第、天気次第で急にやってくるのだった。先生と生徒達が、校庭に一列になって、薪を一本一本手渡しするのである。授業を中止しての学校行事である。誰かが薪を落として失敗すると当然手渡しはストップしてしまう。その間みんなは薪を持たされることになる。下手をすると両手に薪をまたなければならない。薪が無くなって、ようやっと、冬を迎える事が出来るのだった。


 「薪作り」の時期になると、「杉っ葉拾い」が学校行事として始まる。ストーブの薪に、火を点けやすくする為に、「杉っ葉」が必要になるのである。乾燥した「杉っ葉」は火がつきやすく、火力が強いので、薪に火が付きやすいのである。山へ行って「杉の葉」を拾ってくるのが「杉っ葉拾い」である。「杉の葉」を「炭(すみ)すご」に入れる。「炭すご」は炭を入れる容器で、わらと縄で出来ている。「炭すご」を利用して、「杉っ葉」を運ぶのである。5年生・6年生、男女生徒共に杉山に出発し、「炭すご」を一杯にした者から、学校に帰っていく事が出来るのである。しかもその山は、学校から遠くて、しかも急斜面の場所が多かった。今の観音様のある場所である。「杉っ葉」を集めていると、犬の死体があったりして、早く学校に帰りたくなる杉林の暗さと急斜面だった。
先日の還暦の同級会で話題にしたところ、「中学校でもやったよね」という発言があり、びっくりしてしまった。全然記憶にないのである。


 ストーブ当番」に順番で当たると、早く学校に行って、ストーブに「杉っ葉」と新聞紙を使って、薪に火をつけなければならなかった。寒い日に、皆より早く登校して、教室を少しでも早く暖める当番があったのである。当然クラス全員のまわり番だったが、女子と一緒にストーブ当番をした記憶が無い。女子はやらなかっただろうか。また、大きなやかんに水を入れてストーブの上に置いておくのも、ストーブ当番の役目だった。当然下級生は、学校の用務員さんが面倒みていたが、4年生以上はストーブ当番の役目だった。冬のテストのときにはみんなが静まりかえっているとこにストーブの上のヤカンだけが音を出しているのだった。「早く書け」「早く書け」というように。


 小学校の学校行事の一つに「海浜学校」があった。夏休みの二日間学校の教室に泊まり込んで、共同生活を体験するのである。各自布団持ち込みでの5年生か6年生の行事だった。父兄が学校に来てご飯を炊いて、弁当を作るのだった。その弁当が塩ます一切れと梅干しだったのだけは印象に残っている。朝起きてラジオ体操をして一日目は、船を利用して尾崎灯台を目指した。途中で船のガイドさんが、何か短歌を読んで、宝がこの付近にありますと言った記憶が強い。夕日と松が何とかでという内容だった。源義経の宝だったかなあ。青出浜から尾崎灯台目指して歩いた。一部の父兄も一緒だった。また、教室は男子、女子に分かれて寝るのだったがいつまでもうるさかった。


 また、小学校の学校行事の一つに、映画教室というのもあった。映画館で映画を見るのである。年2回くらいあっただろうか。そして、苦痛は映画を見た感想文を書かせられるのである。教育の一環だった事を示す為だったのだろうが。それにしても、どんな映画を見たかは忘れてしまったが、映画館に向かって、みんなで歩いている情況は覚えている。2列縦隊で映画館まで行進するのである。その2列は男女の2列である。背の小さい方からの隊列であった。
映画館には、他の小学校の生徒もやってくるのである。市内中心部には、映画館が3館あった。「錦館」「中央劇場」「国際劇場」であった。「錦館」「中央劇場」での映画教室の想い出はあるのだが、「国際劇場」での想い出は無い。正月に「忠臣蔵」を大人の間から見た記憶に消されているのかもしれないが。
しかしどのような映画を見たのだろうか。映画を観てから書かせられる感想文は苦痛だったが、一枚も残っていない。当時の学校の先生達が選んで見せた映画の題名を、今になって知りたくなってきた。




 私たちが小学生の頃、外から校舎に入る時、ズックを置く場所、下駄箱がある場所を「昇降口」と呼んだのではなかろうか。しかし、「昇降」を国語辞典で調べると、
 「上がりおりすること、go up and down 用例―口」とあって、果たして正しい用法かと自信を無くしてしまうような表現である。校庭から校舎への小さい段差を昇降すると表現するのは、正しいかも知れないが、少々おかしいと取られないこともない。出入口の階段が1階から2階へと高い場合は、昇降口でいいだろう。しかし1段か2段で昇降では、「出入り口」の方が正しいのではないだろうか。だから、国語辞典では、あえて用例だけを載せて、「昇降口」の説明は避けていると、取られないこともない。最初の用法を間違ったから、「昇降口」が通用していったのかも知れないと考えるのは、考え過ぎだろうか。昔の先生のこだわりが見えそうな気がしないでもない。
 脇道に入ってしまったが、小学校の帰りに雨が降っていた場合、お母さんたちが、傘を持って迎えに来て、「昇降口」は混雑するのだった。隣の家の子供の傘を預かってきたりするので、一人で3本も傘を持ってくるおかあさんもいた。
 でも、今思うと、来る事もできなかったお母さんもいた筈で、その子供たちはどうしたのだろうか。待っても来ないことが判ってから、諦めてズボンの裾をまくりあげて、家の軒先を雨宿りしながら、走りながら帰った事だろう。
 現在は天気予報が精度を増して、「午後は雨が降るだろう」という情報をみんなが共有して、生徒はあらかじめ傘を持たされるのである。
 お母さんが傘を持って迎えに行くという光景は、見られなくなった、雨の日の「昇降口」の光景である。
 「♪あめ あめ ふれふれ・・・・」



 通信簿を見ると、小学校4年は放送委員だった。小学校の放送室は、なぜか校長室の中だった。適当な場所がなかったのだろう。校長先生がお昼の弁当を食べている時、ピンポンパンと放送の開始の合図を鳴らすのだった。また、レコードの針を換えたりもしなければならなかった。 
 学校にもテープレコーダ−が入り始めた時代だった。上面に大きなオープンリールが二つ並んだテープレコーダーだった。それでも持ち運びが可能になったポータブルタイプだった。東京通信工業(ソニーの前身)製だった。生徒を集めて放送劇を試みる先生もいた。
 ある日の昼休み、校内にかかっているレコードは「みかんの花咲く丘」であった。いたずら心がもたげた私はかかっていたレコードにあわせて、マイクのスイッチオンで歌ってしまったのだった。しかし、すぐにばれ上級生が放送室の窓の下に集まってきたのだった。
 「♪みかんの花が咲いている、思い出の道、丘の道」を聞くと思い出す出来事である。


 小学5年生の頃だろうか。私の前の席が「熊谷クン」だった。「熊谷クン」の席は一番前である。先生の席に近い所である。ビートタケシさんがTVでたまに見せる、横に首をかしげるような癖を「熊谷クン」は持っていた。それに、少々「どもる」時があった。
 完全給食でない時代の昼食の時間、「熊谷クン」が振り向いて、私に後ろの壁の方を持っている箸で指さした(箸指した?)のだ。私はその指された方を見た。そして私が振り向いたら、「熊谷クン」は何事もなかったように前を見ていた。そして、次に「熊谷クン」は先生に怒られたのだった。「熊谷クン」は何をしたか。その箸を持って、私の弁当箱から何か一品を、自分の弁当箱に取ったらしい。それが、先生に見つかったのだった。
 その頃の弁当といっても、アルマイト製の弁当箱に「麦めし」、その上に醤油のついた「海苔」を乗せて、ピンク色の「そぼろ」、よくて「魚肉ソーセージ」か「クジラの角煮」の何切れか、或は「ほうれん草のおひたし」が少々付く位だった筈である。何を取られたか、記憶にないのだが、たいした物ではないだろう。「熊谷クン」にしても、ちょっとしたいたずらのつもりでやった事だっただろう。 そんないたずら心を持っていたから、一番前の席だったのではないだろうか。後の席に置いとくと、何をするかわからない心配が、先生にあったのではないだろうか。
 その「熊谷クン」は、軍鶏(しゃも)を飼い、犬を飼って、動物が好きだった。しかし軍鶏にしても犬にしても、ケンカさせる事が好きで、自分の住んでいる町内にとどまらず、強い軍鶏や犬がいると聞くと、隣の私の町内まで、軍鶏や犬を連れてきてはケンカさせるのだった。ある時「自分が一回噛み砕いた物を犬に与えると、犬は自分に慣れるんだ」と、自慢して言った事が印象強く残っている。犬にしても、雑種でそんなに強そうではないのだが、「しっぽが短く左巻きが強い」なんてな事を言っていた。余談になるが、その頃の釜石では土佐犬のケンカ,闘犬が流行しており、「○○号」という土佐犬を飼っている人も町内にいた。組み立て式の木製の柵の中での、土佐犬の争いを見た事もある。
 小学校に相撲部を作ったのも「熊谷クン」だった。校庭に土俵はあったけど、相撲部は無かった。どういう話を先生としたのか、あるいは勝手に作った相撲部だったのかは不明である。顧問の先生もいない相撲部だったから、おそらく勝手に作った相撲部だったのだろう。
 「熊谷クン」の隣の家の下駄屋のSクンや、U君が誘われ相撲部は出来た。何故か私もその一員だった。いま思うと、S君にしても、U君にしても体は大きいが、気は弱かった。私は体も小さく、そんなに相撲も強い訳ではなかった。しかし誘われて断れなかったという事は、私も気が弱かったという事である。「熊谷クン」にしても、私とそんなに変わらない体格で相撲が強いという訳ではなかった。「熊谷クン」には、そういう人の気質を読む何かが、もう小学生の頃から出来ていたのだと、今にして思う。土俵で練習した思い出は残っているのだが、対外試合に出た記憶はない。
 しかし、中学校での「熊谷クン」の思い出は、何故か皆無である。卒業後、草津温泉で調理師をしていると聞いたが、亡くなってしまったらしい。TVでビートタケシさんが、横に首をかしげるような癖を見ると「熊谷クン」を思い出してしまう。




 「通信簿」と一緒に、小学校低学年時の賞状類が保存してあった。印刷物の賞状もあるが、手作りと思われるガリ版刷りの賞状が4,5枚あったのである。小学校低学年時の物である。校長先生の名前で賞状は作ってあるが、
ガリ版刷りの賞状
担任の先生が作ったものだろう。大きさがA4の半分でA5版位である。青インクである.当時テストとか文集は、すべて謄写盤印刷だった。鉄筆で原紙のロウを除いて、そこからインクが紙に滲む原理が謄写版印刷である。
 小学校上級から中学校では、ガリ版で原紙に鉄筆(てっぴつ)を使って自分達で印刷した。間違った場合の、修整液は、オレンジ色で乾燥するのを待たねばならなかった。早く乾燥させる為、ふーふー息を吹きかけた。鉄筆で力を入れ過ぎると、ガリ版用紙は裂けてしまうのだった。鉄筆で書く台は、全体が35センチ×25センチ厚さ2センチくらい合っただろうか。中央にギザギザの鉄製のやすり面を置いて、両側が木製の台で包み込んでいた。ヤスリ面は幅10センチくらい合ったのではないだろうか。
 原稿が出来上がると、謄写版の跳ね上がる上側のメッシュの下に原紙を上下、専用の金属棒で抑えつけて、試し刷りをする。インク缶から、へらでインク台にインクを適量取って、ロ―ラーを縦・横・斜めに何度も廻して、インクをローラーになじませる。ローラーに平均的に均したら、次は印刷する紙の位置の微妙な調整が必要だ。一回に印刷する枚数も制限があった。インクがシャツとか、ズボンに付く事もあった。
 中学校のクラスの学級文集を作る場合を思い出せば、各自のそれぞれの文章の他に、最後はみんなの寄せ書きとなるのが定番である。そこだけは各自が、一枚の原紙に鉄筆で書き込まなければならないのである。真ん中に先生の言葉があって、周囲を45人くらいの生徒がそれぞれ好き勝手な事を書き込む。前述の苦労をして、印刷が始まる。印刷した時にインクが、前の紙の後側に付かないように、一枚一枚別の場所に置いて乾燥させる。印刷した紙が1枚か2枚足りない時があるので、原紙はインクが付いたまま、新聞紙を張り付けて取っておかねばならない。ごみ箱に捨ててしまうと、後で書き直すという大変な事になってしまうのである。全部刷り終わって、こんどはページ順に並べて、一人一人が順番に紙を取って歩く。大きなホッチキスか、紐で綴って文集の出来上がりとなるのだった。
 後にはもっと簡便な「ボールペン原紙」なるものが登場して、鉄筆文化はすたれていくのだった。あの書く時の鉄筆とやすりの擦れる「ガリガリ音」が懐かしい。



 鉛筆には必ず名前を書いた。上の方を削って、名前を書いた。消しゴムや三角定規や30センチの竹製の直線定規等、あらゆる自分の文房具に名前を書いた。桜クレパスのクレヨンの12本、あるいは24本にも名前を書いた時代だった。
 もしかして、持ち物検査(ハンカチ・チリ紙を所持しているかの検査)でも、鉛筆消しゴム等にも名前が書いてあるかどうか調べられたような記憶がある。
蓋をするタイプのセルロイド製の鉛筆入れが、ビニール製の折りたたみのチャックが付いた物に変わっていった時代だった。
 「ボンナイフ」というのがあった。鉛筆削り専用的な短いナイフである。色んな種類の「ボンナイフ」があった。折りたたみでない「ボンナイフ」もあったが、折りたたみのナイフが多かったのである。刃の大きさが4センチ位あっただろうか。折りたたみだから、全長8センチ位となる。持つ方のプラスチックに「BON」と刻みこんである。
鉛筆の削り方もそれぞれ個性があって、急角度で削る奴もいれば、きれいに削る女の子もいて、教室に落ちていても誰かの鉛筆か判る場合もあるのだった。
 正三角形と直角三角形の2枚のプラスチック製の定規にも、コンパスの先で名前を刻み込んでいた。
 そういえば中学校1年時に、30センチのプラスチック製の直線定規を比較して、30センチで1ミリ違うのを発見していた同級生がいたのだった。当然違うメーカーなのだが、よくそこまで気が付くものだと感心した思い出がある。本人は今、その事を覚えているだろうか。


 通信簿で5段階評価が始まったのは、昭和30年だそうである。と言う事は、小学校1年生の時は5段階評価とは違う方法で評価している筈であると思って、自分の通信簿を開いてみた。
 昭和29年度「学校通信票」の「学習状況」には、学期毎に、上の欄に+2.+1、0、−1、−2とあって、その数字から線が下へ伸びている。横に学
当時の通信票
科の項目があり交差したところで○が付けられているのである.それで評価について「備考」があって「0は普通、+1は優れている、+2は大へん優れている、−1は劣っている、−2は大へん劣っているという意味です」と言う記述があった。
 ところが国語は「聞く」「話す」「読む」「書く」「作る」の5項目に細分化されているのである。他の科目も「社会」「算数」「理科」が「理解」「態度」「技能」と3項目に細分化、「音楽」「図画工作」が「鑑賞」「表現」「理解」、「体育」が「理解」「態度」「技能」「習慣」に細分化されて、評価する仕組みだったのである。7教科、24項目についての、0を中心にして+2から−2までの評価だったのである。先生は一人の生徒について、24項目の評価を下さなければならなかったのである。大変な事であっただろう。しかし、「態度」と言う項目が、「社会」「算数」「理科」「体育」だけにあったというのは何を意味していたのだろうか。
 それで昭和30年度の2年生の通信簿を見ると、上が確かに1から5に評価の方法が変わっていた。しかし国語については「話す」「読む」「書く」「作る」の4項目になり、何故か、「話す」と言う項目が無くなり、「態度」は体育だけに残っているのだった。それでも先生は7科目17項目についての5段階評価をしなければならなかったのであった。
 3年生になって、ようやっと、7教科が単純に5段階評価になっていたのだった。
 昭和29年度には評価が細分化されていたという事は、学校側にもある程度の裁量が認められていたのだろうか。それとも釜石とか岩手県だけだったのだろうか。或は全国共通だったのだろうか。
 通信簿にも歴史ありを垣間みた。


 通信票と一緒に「健康ノート」なるものが出てきた。
 表紙には
 きれいな空気 適度な運動 
 良い栄養 清潔な身体
と標語が記載されている。小学5年と6年の分である。
当時の健康ノート
「きれいな空気」と言われてもねえ。
 以前のものが無いので調べたら、それ以前は通信票の中に成績と一緒に記載されていたのだった。4年生までは、年1回の身体検査だったようである。それで5年生の「健康ノート」になってからは、偶数月の体重測定が増えているのだった。体力と運動能力なる項目もあり、40メートル走、たち幅とび、走り幅とび、ソフトボール投げ、懸垂の各項目があった。ツベルクリン皮内反応も反応の大きさと判定+の項目がある。
 「一年間標準体重増加表」なる項目があり、9歳から12歳までの間には女子の方の増加量が格段に違っているのだった。11歳から12歳の間では男子は3.5キログラム増なのに、女子は何と4.8キログラム増となっていたのだった。驅虫(くちゅう)について」という項目もあった。検便検査による蟯虫検査の結果である。マッチ箱に入れて学校に持っていかなければならない時代だった。中学校は「健康連絡箋」となって1冊で3年間の記録である。それには検便の記録が無いから小学6年生まで検査したのだろう。
 中学校の「健康連絡箋」には「学校病」として、
○トラホームおよび結膜炎○伝染病皮膚病○中耳炎○虫歯○畜膿症○回虫病とあって、「学習に支障をきたす恐れがあるので早期の治療が必要です」と注意書きがあった。
 予防接種の欄に「S37.4.17腸パラチフス」の記載があった。腸パラチフスを調べると、経口感染による下痢で発展途上国に多いとあった。この頃の日本は発展途上国並みの衛生状態だったのだ。


冬の寒い日に、クラスの中で男の子だけが多く休む日があった。小学校5.6年生の頃である。住んでいる町は、海の近くだから漁業を営む人もいたが、サラリーマンも多く混在する町だった。
 休んだ子の家は、漁業を営んでいた。後から知ったのは、その日は、アワビ漁の解禁日だったのである。アワビ漁のために同級生達は、海の上での寒い朝に働いていたのだった。家族の生活のための貴重な稼ぎ人・手伝い人として、働いていたのである。鏡を持って海の中をのぞいたか、或は櫓をこいでだか、いずれにしても寒い朝は大変だっただろう。この時代、子ども達は重要な労働力だったのである。
 次の日、学校に来ても、そんな事は露ほども見せなかった彼等。今改めて「みんな、すごかったなあ」と思う。




小学校の校舎は、山を切り開いた場所にあった。高台なので釜石湾が見えた。釜石は平地が少なく、新たな何かを作ろうとする時は、そういう選択しか無かったのだろう。  通学は、当時から、誰に言われなくとも、地域の遊び集団による集団登校であった。
 車が通過する幅の広い道路が、正式な通学路だとすれば、住んでいる所からは遠回りになるので、何時もは近道を使っていた。学校の近くに神社への道があって、この道を通って通学していた。近道である。
 しかし、この近道の途中に通ずる道があった。誰が見つけたのか「近道の近道」である。ただ「近道の近道」は、墓地への道の途中から、2軒の家の敷地を通らなければならなかったのである。縁側に座っているおじいさんが煙草を吸っている前や、花に水をやっているおばあさんや、共同使用している井戸の前を、挨拶をして通らなければならない、少々通りにくい「近道の近道」だったのである。



 小学校入学の記念写真で、自分はしかめ面をして、長靴を履いて映っていた。朝は雨が降っていたのだろう。そういえば、小学校低学年時の履物の覚えに、ゴム製の短靴がある。雨が降った日なのか、短靴の中に水が入っても遊んでいた思い出がある。それも、何故か素足に短靴であった。靴下を履いての短靴の記憶が無いのである。そして少々「がふたら」であった。短靴のサイズそのものがいい加減だったのか、親が少しでも短靴を長持ちさせるために、大きめのサイズを買い与えたのかは定かでない。
 あの短靴を、普段の天気のいい日でも履いていたのだろうか。それとも雨の日だけ履いていたのだろうか。形状は覚えているのだが、全く記憶が定かでない。
 履物といえば、当時の小学校の男の先生の、校舎内での履物は、使わなくなった革靴を再利用した物だった。革靴をスリッパの形状に切り取ったものである。だから革靴のかかとの部分だけは残っているので、木造校舎の廊下を歩く時には、独特の音を出していた。
 「ペッタン、ペッタン」
 隣の教室に、女の先生が来た事が判るがごとくに、静かになった。しばらくしてから(おそらく職員室で煙草を一服した)担任の男先生の、独特の履物の音が廊下に響くのだった。
 「ペッタン、ペッタン」
 また、小学校の男の先生たちの中には、背広の上から黒い肘に当てる「腕抜き」を付けている先生もいた。「腕抜き」は、普通事務員さんが使う物である。チョークが付くのを防いだり、背広の肘の部分が擦り切れるのを嫌って使用していたに違いない。今でもそういう先生は、いるのだろうか?



 小学5年か、6年のころの算数の時間、担任の下川原先生は「15×15は?」とみんなに問うた。そして、即座に「答えは225です」。
 覚えているのが、「1桁の所が5の時の同じ数の掛け算には、答えの出し方に要領がある」と言って、その答えの出し方を教えてくれたのだった。
 例えば15×15、25×25あるいは55×55というような、1の位が「5」の「同数」の掛け算の、早い答えの出し方である。それは「必ず 25 が後ろの2ケタの答えである。その25の前に、その10の位の一つ上の数を掛けた数字を書けばいいのだ」というような事を教えたのだった。
 例えば15×15の答えは、下2ケタは25で、その上は、10の位が1なので、1の一つ上は2、その掛け算で1×2は2で、25の前に2を並べて、答えは225。
25×25は、10の位は2なので一つ上は3。なので2×3で6だから 625。同様に55×55は10の位が5なので5×6で 30、だから3025となる。
どうしてこうなるかは、教えなかったが、中学生になってから習った 連立方程式という形で、Aが10a(aは10位の数)で、Bに5を当てはめればいいと、その理屈が解ったのは、社会人になってからの事だった。中学校の時に気がつくようであれば、世の中、すこしは違って展開しただろうかな?
 また、1から10までの足し算の方法として、黒板に1から10の数字を書いて、その1の下から逆に、10から1の数字を書いて、上下足し算をすると、すべて11。11が10回あって、それが2回あることになる。だから、答えは11×10÷2で55となるのも教えてくれたのも、下川原先生だったような気がする。
2年か、3年の時に習ったような気がする「つるかめ算」には、その名前しか覚えがない。




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