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@ ツーツー
 自転車の三角乗りの前に練習する技。ハンドルを握って、右足をペダルに乗せ、左足で地面を蹴りながら、大人の自転車を走らせる技。バランスを体で覚えた。

A 赤胴鈴之助
 夕方の放送の時間になると、遊びを止めてラジオの前に集まった。テーマソングの放送と合わせて、一緒にみんなで歌っていた。「笛吹童子」や「一丁目一番地」というラジオドラマもあった。「神州天馬峡」や「里見八犬伝」は流行った映画だった。

B 側溝跳び
 大きな側溝を跳ぶ肝試し的な危険な遊び。みんながやると、自分もやらなければならなくなった。

C マツモ採り
 春休みになると、潮の引く日を狙ってマツモ採りだった。剃刀を持っていかなければならない。

D 紅ましこ
 冬になると「紅ましこ」が、集団で渡ってきた。かすみ網に追いかけるのだったが、捕まらなかった。

E 味見
 通学路に魚の干し場があった。学校の帰り道に「鯵」とか「脱脂したさんま」の干物の味見をしていた。

F あか
 小学校時代、鉄くずを集めて売っていた同級生もいた。あか(銅・銅線)が高いと言っていた。誰かが言い出したのか、鉄くず回収業者のものまねだと言って、
「10円玉だと思ったら、ビール瓶の蓋だー」という独特の節回しが流行った。

Gブーちゃん球場
 油川の脇は結構な広場で、山際に豚小屋が在り、私たちは勝手に「ブーちゃん球場」と名づけ野球をして遊んだ。ただ、打ったボールが川に入ると、ボールをどこまでも追っかけなければならなかった。ボールが大渡川まで流れ出るときもあった。

H ほうずき風船
 「ほうずき」を揉んで柔らかくして、中の種や果肉を針で取り除き、風船にして手のひらで遊んだ。作るのは難しく、失敗するほうが多かった。

I 女の子との遊び
 石蹴りや縄跳びは一緒になって遊んだ。少し大きくなってから、道路に紐を張ってバトミントン。車が来たら、片方を外して車を通した。道路の主人公は、まだ車ではなかった。車の絶対数が少なかった時代だったから出来た遊びの数々。

J 切手収集 
町内で同級生のKさんのお兄さんが、切手の交換に家に来たことがあった。何の切手を交換したかは思い出せないが、親父さんの戦前の手紙から切り取った古い切手を持っていたから、それ目当てだったのではなかろうか。
スタンプブックを買って、切手をパラフィン紙で包んで、収集していた。

K 漆かぶれ
  山で遊んで、漆にかぶれると大変だった。その手で小便をするものだから、そこも漆にかぶれて、痒くて痒くて、大変な事になる。

L 塩辛・トマト
 子供の頃の苦手な食べ物に、塩辛とトマトがあった。塩辛は大人の食べ物の印象が強いが、昔は子供も食べさせられていたのだろう。しかし、思うに現在の塩辛もトマトも味が改良されて、甘さを増しているのではないだろうか?トマトに関してはいいと思うのだが、塩辛に関しては、昔の味を味わってみたいと思うのは私だけだろうか?

M らくがん
 お盆の時の楽しみといえば、仏壇を崩し終わった後に食べられる「らくがん」だった。らくがんにも、ピンポン玉大の丸い単体がピラミッドみたいに5段くらいに重なったのと、ハスの花が3段から5段重なったような2種類のらくがんがあった。色も白と桃色の2色があった。堅そうであっても、口に入れると急に柔らかい歯ごたえとともに、独特の甘さが口に広がる。甘さに飢えていた昭和30年代の名物だった。
 甘さがあふれすぎている現在は、お盆の飾り物になってしまって、子供たちは見向きもしない。


 @ 豆炭あんか
冬場の炬燵の中には「練炭火鉢」が入っていた。練炭に火をつけるのは子供の仕事だった。寝る時には「豆炭あんか」を使用した。
 昭和35年までの、一般家庭での電気の用途は、電球とラジオ用で、せいぜい電熱器位のものだったと思う。


A 火吹き棒
 ご飯を炊く時,たきぎの火の勢いを強くするために使う竹の棒。当時の必需品。

B 経木
 納豆は三角形にした経木に包まれて売られていた。一辺10センチくらいの大きな三角形だった。4人分くらいの量だったのか。

C 歯
 歯がぐらぐらしていると、歯と足の指先を紐を結んで寝る、次の日の朝は抜けている。その歯を神棚へ投げてやった。

D こうせん
 おやつの一種。お茶碗に「こうせん」を入れ、砂糖とお湯を足して、丁度いい煉り具合を作って食べていた。「こうせん」を「香煎」と書くとは知らなかったし、大麦の粉である事も知らなかった。砂糖を多く入れれば、甘くなるのは当然だった。


 @ 家庭訪問
 小学校の家庭訪問では、地区の女生徒2,3人が、先生について歩いて、訪問する家を教えるため先導していた。

A 運動会
 借り物競走で椅子を持って走ったはいいが椅子と書いた紙を、どこかにやって失格となった。両手で椅子を持つために、紙はその辺に
 忘れてしまったのだろう。栗とかブドウを食べていた思い出が付随。

B 購買部
 中学校には購買部があって、生徒が担当し学用品や、パンなどを売っていた。

C 衛生検査?
小学校では、衛生検査?なるものが行われていた。爪を切っているか、ハンカチ・ちり紙を持っているかの検査を、授業前に同級生の保健委員がしていた。「持ち物検査」だったかな?

D カマキリの孵化
小学3年生の時だろう。教室の窓際に置いていたカマキリの卵から、沢山の子供のカマキリが孵化した光景は、印象深い出来事だった。卵を持ってきのは、学校下のI君だった。

E 五目並べ
中学校で、授業中にノートを使って五目並べ。ノートの横線に、鉛筆で縦線を引いて、碁盤。横へのノートのやり取りは、目立って怒られる。同好の士と席が前後になることが望ましく、なお且つ同等のレベルだと長続きするのだが、学期ごとに席替えが待っていた。

F 実習棟
小学校の時に、釜石工業高校の中を見に行った事がある。遊びの行動範囲が広がっての出来事。平屋の長い実習棟が、各科(当時は機械、電気、造船)毎にあって、それぞれは渡リ廊下で結ばれていた。その実習棟の間に相撲場があって、部活動が行われていた。また、自動車部もあって三輪自動車があった。

G テープレコーダ
昭和40年頃に、野球部の同級生に、県大会の試合実況がラジオ放送であるので、録音してくれと頼まれた。まだ、ラジカセは発売されていない時代なので、ラジオの前にテープレコーダを置いて録音したに違いない。当時珍しかったので、兄弟でおもしろがって、いろいろな音(?)を録音したが、その音の数々を、はたして消してから、返しただろうかと、今もって気がかりなのである。

H 東京オリンピック開会式
昭和39年10月10日。当日は遠足だった。それも市内の薬師公園だった。先生たちもオリンピックを見たくて、近めの設定をしたのだろう。


 @ 東部バス
 市内を走っていたのは「東部バス」という会社だった。東前の方に、バスのターミナルがあった。

A 空気銃
 空気銃でスズメを撃っていた人がいた。独特な形の鉛の弾。あの時代、空気銃を持つのに何か許可が必要だったのだろうか、持っていたのは私たちより、少し上の世代ではなかっただろうか。

B 殺人事件
 只越町の水野病院付近で殺人事件があった。当時、殺人事件は希有な事だった。果たして解決したのだろうか?どんな事件だった

C大火事
 小学校時代に岩手缶詰の嬉石工場が全焼した。この火事は製鉄所の鉱石置場(現在の警察署)へ走って行って見た。昭和38年頃には小佐野中学校の火事があった。

D 土佐衛門
 港町の釜石海陸運送(当時は荒井運輸?)の前に上がったのを見た記憶がある。まだ、生きていた。

E 豆腐売り
 町内を、朝早くに「とーふー、とーふー」と独特の節で、豆腐を売りに来たのは工業高校先輩のIさんだった。生徒会長を務め、成績優秀だった。
 
F 料亭「太平洋」
 釜石工業高校の下には、パンとか雑貨を売っている店が一軒、海岸端には「シェル石油の貯蔵所(タンク)」と、料亭か旅館(?)「太平洋」があった。市内にも料亭「太平洋」があった筈だから、「別館太平洋」だったのだろうか。市内の「太平洋」は、「粋な黒塀」ではなかっただろうか?

G 屋台
 夜になると、町内をリヤカーの屋台で回っていた支那そば屋さんがあった。来たことを知らせる為に何かを吹いていたような気がする。一杯30円か50円ぐらいだったのではないだろうか。同級生のお父さんだった。現在は、立派に店を構えて商売している。

H 黒い雪
武智監督の「黒い雪」の宣伝で、映画館「錦館」の建物に、今まで見たこともないような大きさの布製の垂れ幕が下がった。「黒い雪」は、「わいせつ図画公然陳列罪」で話題になったが、結局無罪となった。あの垂れ幕は日本各地で見られた光景だったのだろうか。

I 女乗り
 まだ、自転車に婦人用自転車が無かった時代の女性の自転車の乗り方。男性は右足を後ろへ回して乗ったが、女性は左足をペダルへ乗せ、右足を前へ上げて、ハンドルとサドルの間のパイプを越して乗っていた。「女乗り」と言った。

J ビラまき
 軽飛行機(セスナ?)から、ビラまきが頻繁に行われた時期があった。ビラはきらきら光りながら落ちてくるのだが、風の勢いで、近くへは飛んで来なかった。何の宣伝だったのだろう。

K 鈴木東民
 当時市長であった鈴木氏が、八雲町にあった自宅の近くの河川敷に、ヘリコプターが到着して、乗ったか?降りたか?したのを見に行った。ドイツ人の奥さんも一緒だったのかな。

L マツダクーペ
親父さんの会社の社長が購入した。調べると、昭和35年5月に33万円で発売。16PS/5300rpm。運転席に座った思い出がある。4人乗りとあったが、後部座席に大人は無理。社長さんは、始め富士重工のラビットのスクータで現場周りをしていたが、会社が大きくなるにつれ、2代目コロナ、いすゞヒルマンと専属運転手付きになっていった。
  
M 流行歌
「♪コロッケ、コロッケ 今日もコロッケ、明日もコロッケ」という流行歌もあった。しかし思い出深い流行歌は、石原 裕次郎の「錆びたナイフ」であった。その二番の最後は「♪小島の磯だ」と歌われるのであったのだが、ここを聞くとドキッとした。頭がよくて、目が大きくて、かわいい女の子の苗字が含まれた歌詞だったからだ。今思うと、初恋というのかもしれない。しかし、その歌詞には、苗字に考えられるのが2つあったのだった。
   
N 大平団地
市のホームページの沿革を見ても「大平団地」の記述がない。もしかして、団地の開発は民間業者だったのだろうか。同じ町内から、団地に引っ越した同級生や、他から団地に入居し、転校してきた生徒もいた。造成の現場を見ている筈なのだが、記憶に無い。造成前は、昔の商業高校(現在の白山小学校)から、漁業無線局までの間に、一軒ぐらいしか家がなかったと覚えている。

O カゼ
いまでは「ウニ」と言っているかもしれないが、当時の釜石では、「カゼ」と言っていた。「エゾバフンウニ」が「ボーズカゼ」、「ムラサキウニ」が「クロカゼ」だった。



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